イザヤ62:1−5/黙示録3:14−22/ヨハネ21:15−25/詩編118:1−12
「ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。」(ヨハネ21:17b)
「話があわない」という経験は良くあることです。旨く伝わらないということもあるでしょうし、関心の中心がズレていることもあります。わたしが大事と思う部分と受け取り手が大事と思う部分が違っていれば、なかなか噛み合いません。話をしなければ絶対伝わらないのに「話せばわかる」とは限らない、むしろ「話しても伝わらない」こともある。人が生きていく上では他の人と一緒に生きて行く他ないわけで、コミュニケーションがとても大切だというのはその通りだけれど、そのコミュニケーションでたくさんのロスが生じてしまうのもまた事実。人が生きて行くというのはなかなか面倒なものです。
今、関心の中心のズレと言いましたが、話しているうちに何かに引っかかりを感じてしまうと、その他の話が全く頭に入ってこないということがあります。そのため、伝える側の伝えたいことが伝わらず、受け取る側には気になったことだけが頭に残る。そんな状態です。
復活のイエスが現れて、弟子たちのために朝食の用意を調えていてくださった。炭火であぶった魚とパンをみんなで食べます。まるで十字架での処刑などなかったかのような、在りし日そのままの平和な風景です。その和やかな食事の後でイエスはペトロに言うわけです。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(21:15)。和やかな食事の余韻が残る中でペトロは例によって張り切って「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(同)と応える。イエスは二度、そして三度、ペトロに聞きます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」(16,17)。
わたしはこの箇所をどうイメージしてきたかというと、三度のイエスの問いかけはそれなりに間を置いたものだと勝手に思ってきていました。イエスがペトロに対してたてつづけに同じことを三回も聞く姿がなかなか馴染めなかったのです。で、どうして馴染めなかったかというと、わたしがこの箇所を読む時にイエスがペトロを問い詰めているとは思いたくなかったのだと思います。たてつづけに同じことを三回聞くよりも、それなりの間を置いて聞く方が柔らかく感じるからです。そしてそれは明らかにイエスには柔らかくあって欲しいと願っているからでしょう。何故なら、ここで問い詰められているのはわたしなのだという思いが心の奥にあるからです。ペトロが問い詰められているのは、自分が問い詰められているのと同じで心が痛む。だからダメージを少しでも和らげようと自分を守ろうとしている。イエスはあくまでも柔らかいイメージでいてほしいし、そのイメージでわたしに語りかけてほしい。そう思っているのでしょう。
ところがヨハネは淡々とイエスの問いかけを三回ここに書くのです。「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」というペトロの答えのすぐ後に、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と。ギリシャ語本文でも「2度目に」と「3度目に」という言葉だけが付いています。それぞれの間に「しばらくして」とか、「〜〜の後」などとは書かれていないのです。
「問い詰められている」とペトロは受け止めたのでしょう。「愛していることは、あなたがご存じ」と答えてもイエスは聞いてくる。繰り返し問われると言うことは、ペトロにとってイエスが自分の答えに満足していない、「愛していない、不十分だ」とイエスは受け取っているのだと感じたのではないでしょうか。そしてそこに引っかかってしまってペトロの頭の中はその思いでいっぱいになったのではないでしょうか。ここでイエスに3度迫られることでペトロは問われていることの深刻な状況──大祭司の庭で三度イエスを知らないと答えた、ペトロ自身に関わる重大なこと──を深く自覚せざるを得なくなり、自分自身の犯した事柄がいかに取り返しのつかないことであるかを思い知らされているのです。
「何かに引っかかりを感じてしまうと、その他の話が全く頭に入ってこない」という現象はペトロとても同じでしょう。あの大祭司の庭での出来事を彷彿とさせる状況に至って、イエスの言葉を細部までハッキリと聞き取り記憶することが出来ないほど今ペトロは心が塞がれているのかも知れません。そう、イエスは1度目も2度目も「わたしを愛するか──agapa-s me」と聞かれているのに、ペトロは「愛していること──filow se──は、あなたがご存じ」と答える。3度目にイエスは「わたしを愛しているか──fileusu me」と尋ねる。その時漸くペトロは聞かれていることの意味に気づいたのでしょう。そして痛みを抱えながら「主よ、あなたは何もかもご存じです。」(17)、そして「わたしがあなたを愛していることを──filow se──、あなたはよく知っておられます。」(同)と答えるのです。
イエスが求めるような「アガペーの愛」は持ち合わせることが出来ない、過去もあり傷もあり破れだらけだとしても、イエスを「フィローの愛」で愛したいというペトロの思いをイエスは汲み取ってくださった。ペトロの「今」を受け入れてくださった。そして新たな使命をペトロに与えてくださった。「このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」(19)。イエスがペトロの方に歩み寄ってくださったのです。
イエスはわたしに向かっても歩み寄ってくださる。完全な者にはなれそうにないとしても、そんな不完全なわたしの「今」を受け入れ、「今」だからこそ担うべき使命を、今日も与えてくださっているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。神さまがこのわたしに歩み寄ってくださる、神の愛とはそういうものであることを主イエスはお示しになりました。それを真似ることなど出来ないけれども、わたしの「今」を神さまが受け入れてくださっている、それは大きな励ましです。様々な思いに乱れているわたしの「今」を主は受け入れてくださり、「今」なすべきこと、出来ることを使命として与えてくださる。その御業を信じて主イエスに従い、神さまを信じて歩むことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。